Legendの原点
高校時代から得意だった「人をまとめる役目」
愛知県豊橋市羽田町にある鈴木の実家、「写真のすずき」といえばこの地区では知らない人はいないというほど有名な写真店である。鈴木は次男として生まれたが、7歳上の長男が他界したため、長男の役目を背負って育った。現在は実弟が家業を継ぎ、写真館のみならず結婚式場まで展開し、豊橋市だけではなく浜松市にまで事業を拡大し成功を納めている。
高校1年の夏に入部していたテニス部を辞めた鈴木は、実家の写真店で働く「小僧さん」(当時、中学校を卒業し写真屋で働く同じ年代の子供たちを小僧さんと呼んでいた)たちのまとめ役として学校が終われば店の手伝い、休みになれば終日写真店の手伝いをするという高校時代を過ごしていた。
― 医師を目指したのは、どのようなきっかけだったのですか。
豊橋市内でも有数の進学校である時習館高等学校に通っていた。大学に進学する時も、自分は写真屋を継ぐと決めていたからね。特にどの学部へ進もうかとか何も考えてなかった。ただ僕の親友がね、医学部に行くっていうもんでね。じゃ自分も医学部を受験してみようかって受けたんだよ。
でも、その頃は医者になるなんてことは考えてもいなかったし、自分は東京の写真学校(現 東京工芸大学)に行って写真屋になるつもりだった。入学金を持ってこだまに乗り、東京に向かっていた時に、新幹線内におやじから電話がかかってきてね。昔は、新幹線内で電話を取り次いでくれたんだよ。それで親父に「戻って来い、帰ってこい」と言われたんだよ。その時に医学部の合格がわかり、(自分の居ないところで)家族会議が開かれていて、僕を医学部に行かせるということが決まったというんだね。それで急いで新幹線を降りて、実家に戻ったんだよ。
― それは思い出深いエピソードですね。お父様は家業を継ごうとしていた先生をどうして医学部に進学させようと思ったのでしょうか。
親父は、立派な農家の末っ子で、勉強が好きだったようだけれど、長男と20歳も年の離れた子だったから、自分から学校へ行きたいとも言えなかったらしい。だから10代後半で徴兵されて陸軍に入り、そこで一生懸命勉強して衛生兵になった。とても優秀で、広東省の陸軍の衛生兵のトップをしていた。遺品の中にその時おやじが勉強した時のノートが残っていて、そのノートには勉強していた内容がぎっしりと書かれているんだよ。当時勉強していた医学の内容は、今も昔も変わらないね。レントゲンの取り方だとかそういうことが細かく書かれていた。
昔はプリントもなければ何もない時代。黒板に書かれていることを全て手書きできれいに板書して残されていた。だから僕は、それは今も大事に保管している。そんな親父の思いを僕は知っていたし、自分ができなかったことを自分に、つまり僕を医者にしたいっていう気持ちがあったのだと思うよ。そんな親父に説得されて岐阜大学の医学部に行くことになった。
Legendのはじまり
「医者になるつもりは全くなかった」
親友が医学部を受験するからと自身も医学部を受験し見事に合格。父親の思いを継ぐ形で医学部へ進学したが、大学生活が始まると勉強どころではなく、高校時代にできなかったことを思い切り楽しむ時間ばかり過ごしていた。
― 大学時代はいかがでしたか。
大学時代もね、いいかげんだったよ。医学部に行ってもまともに勉強した記憶がないね。学生デモも激しい時代だったし、大学でバスケットボール部に入って毎日練習で忙しかった。医学部のバスケ部は、下手なやつばっかりで、どこにパスしとるのって感じだった(笑)。だから全学部のバスケット部で上手い人たちと練習をしていたよ。高校時代に写真屋の手伝いで部活ができなかった分、大学行ってバスケばかりやっていた。昼練、夜練とバスケばかり。その合間にデモに参加して、勉強する時間なんてなかったよ。
大学時代は、一言でいえばバスケ一色。東海地方の中でも強くて、東海地区代表として東京の代々木まで行ったよ。夏休みの合宿は山のぼりもした。だけどそのバスケで足を痛めてしまってね。右足を痛めたせいで、今も正座ができないんだよ。
― そんなにバスケットボールに打ち込まれていたんですね。いつ勉強をすることに?
本当に大学時代は自分のことだけをやったね。そんなだったけど僕は試験落ちたことないからね。一回だけ大学の試験を落ちたことがあって、それはデモに参加したときに警察に捕まって、豚箱に2週間拘束された。その間にあった試験にはさすがに受けることができなかったけど(笑)紆余曲折あったが卒業してどうにか国家試験も合格した。短時間で勉強するとか、要領もよかったかもしれないが、最短距離で最高の成績をとるというバランスのよさは中学のときからそうだったね。要領のよさというよりも、見抜く力、何がいいか悪いかを見抜く力はあったね。10知って100知るという感じ。そういうのが大事でしょ。実験なんかでもこれで何をするかすぐに見えるからすぐに実験ができる。それが自分のいいところかな。物事には必ず本質があるから、それを見抜く力は人生で大事でしょ。時々自分はなんでもできるんじゃないかって勘違いすることもあるけどね。それはしょうがないね(笑)。
岐阜大学では、鈴木は榊原記念病院の住吉徹哉先生と同級生だった。出席番号が前後だった2人はどんな学生生活を過ごしたのだろうか。
― 大学時代の住吉先生はいかがでしたか。
あのままだね。真面目。実験をするときも手順をきちんと確認して、理解してから始めるタイプ。でも僕は、手順を読む前に実験を始めてすでに終っているというタイプ。2人は対極かもしれない。僕は講義に出なかったので、住吉先生のノートと代返に本当に助けられたよ。島田ってやつがおって、彼は静岡県立総合病院に勤めてたんだけど、お互いに役割分担してたよ。おかしな縁だけど3人とも循環器分野に進むとは、ほんと不思議だね。その中でも一番真面目なのが住吉先生。すべての講義に出席でね。でもなんだかんだその3人とも学年で5位以内の成績だったんだよ。
― 3人が学年で5位以内!それはすごいです。住吉先生の完璧なノートのおかげでしょうか(笑)。先生が循環器を選ばれたきっかけは何だったのですか?
大学卒業後、岐阜大学に残った理由もいい加減で、東京の病院で研修したかったんだけど断られ、名古屋の病院に来るようにと言われていた。ある時、岐阜大の先生たちに飲み屋に連れて行かれ、なんだかよくわらない間に第二内科に入局することになった。そこが循環器だった。実は岐阜大の第二内科の助教授平川先生に憧れていた。彼は非常に頭が良くて「かみそりヒラカワ」と呼ばれていたくらいでね。性格は穏やかで、でも頭は切れる。その先生がいたので、第二内科を選んだ。優秀なやつは第一内科に残る。そこはくそ真面目なところで、それとは逆に第二内科は面白くて、できの悪いやつが集まるところで。そんな中だったら僕でも活躍できるでしょ?そんな理由で第二内科に残ったんだよ。
実際、研修医としてスタートしたけど先輩の先生たちは一緒に患者さんなんて診てくれなくて、いつも先生たちが集まっているマージャン屋に患者様の状況を報告に行っていた。医局も狭く、部屋の真ん中にテーブルがあって、長いすのところで囲碁をみんなでやっていたんだよ。傍で囲碁をみているだけで囲碁が上手くなったほどだね。第二内科の医局は碁会所でした(笑)。
― 岐阜大学で最初の研修を積んだ後、どうされたのですか?
その後は、東京でもう少し勉強したいという思いもあり、東京女子医大に勉強に行ったね。その時また不思議な出逢いがあった。おやじが陸軍の衛生兵をしていたことで、戦後も台湾の人たちとの交流があってね。大富豪の人や看護師さんたちもいて、彼らが実家に寝泊りして日本に滞在していくことがあった。その中の人で台湾の看護師資格を持っている人がいた。おやじが現厚生省と交渉して、日本の看護師免許を取得できるよう手伝ってあげたんだ。その人とは、ちょうど僕が女子医の研修医で勤めていたとき時に、三鷹病院で一緒に働いたことがあるんだよ。縁とは不思議だね。いつどこでだれとつながるかわからんでね。その時、その瞬間と大事にして、人との出逢いを大切にしないかんね。
― カテーテル治療を極めていった、そのきっかけは何だったのですか?
決して極めているとは言えないけど、血管の正常を理解して、経験を積んでいくことでディバイスの使い方がわかっていった。例えばカテーテルを温めて操作しやすくすると、血管も受け入れてくれるようになる。血管の中でもしっかりとカテーテルを進めていくことができる。
それくらいしないと、血管はしなやかなもの。昔はステントが出たときにステントがよく落ちたけど、今あるマイクロカテのデザインの構想もあった。さまざまなディバイスの改良点のイメージが沸いてくるね。
カテーテルをはじめたきっかけも偶然だった。まだPTCRの時代。患者様から教わることばかりだったけれど、血管のカットダウンや技術も五感を使って、5mmもカットしないで確認できるようになった。手先の感触など五感をフルに使えるのは素晴らしいことだよ。そして、ディバイスの形状を知ること。若い人によく言っているのが、お風呂にカテーテルを持っていってあたたかいお湯の中でカテーテルがどう変化するかを確認しろっていうんだよ。そうするとカテーテル類がすぐにやわらかくなるということがわかる。それが体内の中と同じ条件でしょ。いくら模型でやってもわからないことが、実際に体感するとわかるからね。まずをそのことを覚えなさいと言っている。あとは、ライターで温めて形状を形成できるということも、日ごろからやっていないとわからない。昔は、お腹の血管造影をする時も、自分でバーナーを使って温めて形状を作っていたからね。今は製品が揃っているからそんな必要はないかもしれないが、それができるということを知っておくのは大事だよ。
Legendのこれから
「予防医学」がこれからの医学を変える。
予防医学の重要性を熱く語る鈴木。無農薬野菜やオメガオイルなど食を通じて予防医学を自ら実践している彼だからこそ、患者様にもその有用性を勧めることができるという。鈴木の食事に関する知識は深く、ハートセンターのカフェでは、減塩、中鎖脂肪酸の摂取方法や糖質を控えた料理の提供、また健康に繫がるレシピなどを提供している。
― 先ほど先生の昼食を拝見しました。とてもヘルシーで栄養バランスの良いメニューでしたね。ある意味対処療法かつ侵襲的治療を行なっている先生が「予防医学が大事だ」という考えになぜ行き着かれたのですか。
PCIを何回も行なって、ステントも何個も入れて冠動脈を広げて退院した患者様が、また違う血管を詰まらせて救急で運ばれてくるということが、何度も何度もあった。その時、その場で血管を広げるという治療は大事だけれど、その後血管を詰まらせにくくするように患者様への生活指導が大事になってくることを長年やってきたからこそ、痛感したんだよ。ステントを入れて終りではなくて、そこから血管を詰まらせないような食生活などを患者様に教えることで、次に血管を詰まらせるリスクを軽減できる。
それには患者様自身の自覚と協力は重要。だから毎年8月10日をハートの日として、広く一般市民の方にも食事や運動をして健康に過ごすことが、今後の高齢化社会の中で医療費を削減できる有効な手段であることを伝えるようにしているんだよ。以前は血管広げて終りだったけど、それだけではいかんね。結局広げてからが大事だとわかった今だからこそ、食事の重要さなどあらゆる手段で伝えていきたいと思っている。
― 鈴木から若い人に伝えたいこと
PCIの治療をしているときも、はあはあと浅い呼吸になってしまう人が多い。そういう時こそ、丹田(へその下)に力を入れて、腹式呼吸を心がけるいいよ。そうすると手の力が抜けてくる。それを常日頃訓練したほうがいい。ゆっくり呼吸するとワイヤー操作がしやすくなるはずだよ。
手技が上手い人こそ、呼吸をコントロールしていると思うね。
特にトラブルのときこそ、腹式呼吸をすることで気持ちが落ち着き、冷静になって難局を切り抜けられるはずだからね。
とにかく頭の回転が早い人である。次から次へと話題が尽きない。「10知って100を知る」と本人も話していたが、こちらの質問が終わる前にそのポイントを理解してしまう。常にフルスロットルで動いているとてつもないエネルギーの持ち主だ。鈴木は1日の外来で100人を超える患者様と接している。日々の患者様との対話で、病気を予防し、健康を患者様自身の力で維持していくことがどれだけ重要であるかを肌身で感じているのだ。「予防医学」という新しい挑戦へ、今、彼のエネルギーが向けられている。