Legendの原点

「楽しいことにはどんどんのめり込んでいく」そんな子供だった

東京都杉並区の出身の齋藤は、都立豊多摩高校(京王線浜田山駅近く)卒業後、大阪大学に入学する。高校時代は高下駄を履き、自宅から30分かけて自転車通学。そしてラジオで聞いた音色に魅了され、フラメンコギターに熱中する青年であった。そんな齋藤がどうして医師を志し、世界で名をとどろかせるカーディオロジストになったのか。そこには医師として全身全霊を向け関わった患者様との出会い、治療を通じて感じた思いが、関係しているようだ。

― どのようなお子さんでしたか。

通っていた公立中学校は、杉並区のワルばっかりが集まるような学校でした。ちょうど中学2年の頃に東京オリンピックが開催され、聖火ランナーが街の中を走り、オリンピックで街中が盛り上がっていたね。日本の体操選手が活躍していたこともあり、校庭の砂場も何もないところにある鉄棒で、みんなで選手の真似をして遊んだね。遊んでいるうちに大車輪ができるようにまでなってね。今じゃ危なくて考えられないようなことをして、みんなでわいわい盛り上がっていたことが、中学では一番印象に残っているかな。

高校では、入学直後に木造校舎が火事で焼ける事件があった。噂では生徒の放火という話もあったが、今でも真相は闇の中。そんなちょっと変わった学校だったこともあり、男子は全員裸足に高下駄を履いていてね。高下駄を履いて自転車通学をしていたんだよ。通学路の途中に、相撲の花籠部屋や日大の相撲部があったが、お相撲さんたちが、高下駄で自転車をこいでいる自分を珍しそうに眺めていたね。

― 高下駄で自転車に乗れるんですね(笑)先生のバランス感覚はそこで養われたのかもしれないエピソードですね。高校時代はどんな学生でしたか?

高校入学当初は、学年5位に入る成績だったが、ラジオから流れてきたフラメンコギターやクラックギターの音色に惹かれた。その頃はフォークギターが流行った年代で、禁じられた遊びも大流行するなどギター全盛期だったこともあり、どんどんギターにのめり込んでいった。その結果まったく勉強をしなくなって、必然的に成績は、1学年400人中370番くらいになってしまった(笑)。そんな状況にもかかわらず、何もわからないまま、わいわい楽しいことばかりをやっていた。自分の成績が下がって、勉強が何もわからなくなっていたことに気がつくまでに、2,3年かかったよ。好きだった数学や物理もどんどんわからなくなり、このままではいけないとまた勉強をはじめた。

そうこうするうちに大学受験が迫ってきた。文系が大嫌いで、理系は得意だったこともあり、東工大を目指し受験。しかし数学、物理はほぼ満点であったが、その他はまったく点数が取れず、あえなく一浪することになり、駿台予備校に通いはじめた。駿台予備校の中でトップクラスの御茶ノ水校には通うことができず、四谷校に通いこのままでは駄目だ、英語をなんとかしなくてはいけないと一大決心をした。

当時受験でよく使われていたイギリスの小説家サマセット・モームの7~800ページはある洋書を購入し、辞書を一切使わず、前後の流れと文章から推測しながら、一冊を読破した。そうすることで苦手だった英語を克服した。これは今までの人生においてもよかったと思えることのひとつになっている。そうやって勉強している中で、駿台予備校でトップ5位に入る成績となった。

Legendのはじまり

「臨床医には興味がなかった」

医師になるつもりは全くなく、難易度の高い学部という理由で、医学部を受験した齋藤。しかし実際に医学を学びはじめ、だんだんと興味が芽生えてくる。

― 医学部を受験したのはなぜですか。

1年間予備校に通い勉強をしたので、普通の学部を受験しても合格できるという自信があった。どうせ受験するならば難易度の高い大学、学部を受験しようと決めていたので、東大医学部を目指した。しかし、東大紛争が激しくなり受験できなかった。そのため倫理社会の科目で受験できる大阪大学を受験することにしただけ。この頃は、自分の人生のことなんてでたらめで真面目に考えることもなかったし、失敗したらどうしようなんて、考えていなかった。もちろん医師になる気持ちはまったくなくて、高いレベルの学部を選んだ結果、医学部という選択になっただけだった。

医学部に入学しても2年間は基礎教科のため、医師になろうという意識もゼロであった。しかし3年生になり、基礎医学の勉強である解剖学や生理学を学びはじめた。実際に解剖なども行い、生命の仕組みなど、医学への興味を持てるようになってきた。そして無事医学部を卒業し医師となった。

― どの分野に興味を持ったのでしょうか。

自分が医学部を卒業する頃、医局に入部をしないという運動【非入局運動】がはやっており、自分も反骨的な考えから医局への入局をボイコットした。実際には「みんなで医局に入局しない」とお祭り騒ぎみたいな感じのものだった。結局入局しないまま10ヵ月間大阪大学で研修を行い、その後関西ろうさい病院に移った。臨床病院に移ったものの病院に出勤する前に阪大へ行き、免疫学の勉強会に参加していたくらいで臨床医になるつもりはなかった。当時阪大の免疫学は世界的なレベルにあり自分もその免疫学を目指していた。しかし臨床に関わっていく中で、臨床のおもしろさを感じはじめた。中でも2つの疾患に興味がでてきた。ひとつは急性白血病。この疾患に対する治療は命がけで向き合った。徹底的に細胞をたたけば、効果もでるが感染リスクも高まり、治療はせめぎあいであった。また患者様の精神的なダメージも大きくそのケアを含め、極限ともいえる治療にのめり込んでいった。もう1つの疾患は急性心筋梗塞で、病態が非常におもしろかった。当初、臨床病院では急性白血病や急性心筋梗塞の治療は、苦労も多く積極的治療を行う医師はいなかったが、自分は積極的に手をあげて主治医となった。

急性白血病と急性心筋梗塞。どちらも患者様と正面から向き合わねばならない疾患ではないだろうか。極限状態ともいえる治療経験の中、斎藤に医師として生きる強い決意が芽生えた。

― どのような患者様に治療をされたのでしょうか。

30代後半の男性の急性白血病の患者様で、徹底的に細胞をたたき完全寛解となった。その方には娘さんがいてその娘さんが18歳になった頃に、父親に一生懸命治療をしてくれた自分に感銘を受け、自ら医療の道に進んだという話を聞き、自分が人の人生に影響を与えたことは非常にうれしかった。

また、病院付属の看護学校の学生が急性白血病を発病し治療を行ったこともあった。抗がん剤投与により脱毛し、自分の将来を悲観し錯乱状態となり精神的にも大変だったが、無事に完全寛解となり、佐世保出身だった彼女は地元の長崎労災病院に転院した。元気かなと思っていた数年後、彼女から結婚式の招待状が届いた。喜んで出席すると周りは長崎大学の血液内科の先生方ばかりで、そんな中、自分は主賓として祝辞を述べることになった。ご主人は海上自衛隊に勤務しており、彼女の病気も理解した上での結婚だった。そのまた5,6年後に、ご夫婦とお子さんの写真が入った年賀状が届いた。元気なお子さんの母親になった写真を見て感動した。命をつないだと実感した忘れられない患者様の一人となった。

― 急性白血病の治療に興味をもたれた理由はなんですか?それは心筋梗塞の治療に興味をもち始めたことにも繋がるのですか?

白血病の治療になぜのめり込んだかというと、それは医師の決定が患者様の命に直結するということに非常に責任とやりがいを感じたから。実は急性心筋梗塞(AMI)も同じで、当初は血栓溶解治療もなく、もちろんカテーテル治療もなく、点滴をして寝かせるという治療がメインだった。冠動脈造影検査(CAG)の死亡率が2%であった時代で、カテーテル治療を内科医がやるなんてことは考えられなかった。しかし、それでもCAGやカテーテル治療(PCI)の必要性を、Circulationなど海外の文献を読み勉強していたため、強く感じていた。

そんな頃、ある造船会社の重役がAMIで入院した。点滴治療、心臓リハビリを行い、2,3ヶ月入院治療を行った。退院前の心電図で不整脈が出ており、これは命の危険があるためCAGが必要であると判断したが、当時自分が勤務していた関西ろうさい病院ではCAGを行える体制はなかったため、兵庫医科大学病院の医局会でその患者様のCAGを行ってほしいと依頼をした。しかし、危険な状態の患者様にCAGはできないと断られてしまった。その経緯を全て患者様にお話し不整脈には気をつけてくださいと注意を促し退院となった。でもその一ヵ月後、新聞のお悔やみ欄でその方が亡くなったことを知った。非常にショックだった。死の危険を予測できていたにも関わらず、何もできなかったことが悔やまれた。そして、大学病院でもCAGをできないのであれば、自分でやらなければと強く思ったんだ。

Legendの覚醒

「先生に全てお任せします」患者様のその言葉が全てのはじまりだった。

CAG,PCIの重要性を強く感じていたものの、当時は今のように簡単に検査、治療を行うことはできず、治療に関する情報や器具なども十分なものではなかった。そんな環境の中でも、CAG,PCIの意義を理解し、強く思い続けていた齋藤は、生涯忘れることのできない患者様と出逢うことになる。その出逢いがなければ齋藤が心臓カテーテル治療の世界で生きて行くことはなかったかもしれないと。

― それは、どのような患者様だったのでしょうか。

閉塞性動脈硬化症(arteriosclerosis obliterans:ASO)で両足を切断している70代の男性で、いつも息子さんに背負われて、不整脈(VT)が出る度に、大阪の豊中から関西ろうさい病院まで来院していた。何度もVTを繰り返すのには何か原因があるはずだと考えていた。そこで患者様に「私はCAGを行ったこともない、病院には装置も完備されていない、ただし自分は勉強をしているので、検査を行う自信がある。」ということを全て正直に話し、不整脈の原因を検査するためにCAGを行わせて欲しいとお願いをした。すると「ここまでお世話になった先生に全てお任せするよ」と承諾していただいた。胃の透視の装置で、1秒間に1回の撮影しかできず、もちろん造影剤を注入するときは同時に透視を見ることもできない、そんな状態で検査を行ったんだ。そして画像を見た時に「やっぱりか!」と思った。予想通り冠動脈の中の1本(回旋枝)が閉塞していた。自分が考えていたことが正しかったとそこで確信した瞬間だった。

― その後、関西ろうさい病院でどのようにPCIの治療体制を築かれたのでしょか。

それからは精力的にCAG、そしてPCIをはじめた。そうすると院内には、敵もできたが味方もできた。特に事務長の理解があり予算をつけてくれたおかげで、シネ装置などカテーテル室を整備することができた。しかし人員的なことへの協力はなかったので、コメディカルも含めスタッフの教育をしながら、そして心臓外科も設置し、PCIを行う体制を築き上げた。当時、加藤修先生、鈴木孝彦先生、故玉井秀男先生、故光藤和明先生方が見学にくる程、PCIにおいては一番多くの症例を行うまでの病院になった。

― PCIのどこに興味をもたれたのでしょうか。

そもそもPCIに興味を持った一番のきっかけは、医学部を卒業前、卒業試験を終えて帰宅しようとした時に、たまたまドアが開いていて入った部屋がカテーテル室だったということかもしれない。その時にテレビモニターにカテーテルが映し出されているのをみて、遠隔操作で行われているその治療がおもしろいなと、こういうこともやってみたいなと漠然と思ったのがはじまりだったと思う。

関西ろうさい病院に勤務している時、病院の近くの官舎に住んでいたが、近医の救命センターにAMIが運ばれると、その病院ではPCIができないので、その病院から直接自宅に電話がかかってきていた。電話を受け、救急車の音を聞きながら病院にいき、2階にあるカテ室の電源を入れ物品の準備をして、搬送されてくる患者様を1階入り口でストレッチャーを準備して待機し、そのままカテ室に移動。消毒など患者様の準備をして実際の治療を行い、その後ICUに移動させ、資材伝票を整理し、カテ室の最後の掃除まで、全て1人で行っていた。非常に大変ではあったが、それすら苦に感じないほどPCIにのめりこんでいった。詰まっているところが拡がることが単純に面白かった。

臨床医に興味のなかった齋藤は、さまざまな患者様との出逢いを通じ医師としてのやりがい、喜び、そして限界を体験したことで、自分のやるべきことを見つけ出していった。そこから先は学生時代から変わらぬ齋藤の真骨頂。「難関を極める」というステージに進んでいくのだった。

― 現在の湘南鎌倉総合病院に移られたきっかけは?

関西ろうさい病院で、バリバリPCI治療をしていたが、官僚的な病院の体制はなかなか変わらなかった。

そんな時、関西ろうさい病院の付属の看護学校の学生で、何度も意識消失を起こしていた学生を診察した。拡張型心筋症であったため、運動制限なども必要であると診断し、看護学校に報告をした。すると看護学校の上層部は、自分の診断を信用しないで自分の上司に再度診断を求めてきた。上司はそんなにおおげさにしなくて大丈夫だと診断したため、その診断は違うと上司と激しい口論をした。けれども結局学校側は上司の診断を受けいれた。すると約1ヶ月後にその学生が心停止で運ばれてきたが、蘇生処置の甲斐なく亡くなった。あの時自分の診断を受け入れてくれていればこんなことにはならなかったと、非常に悔しい思いをした。造船会社役員の時と同じ思いになった。

また大学の医局に入っていない自分が周りを乱すと思われているところもあり、官僚的な体制に限界を感じ、まだ病院の建物すらできていなかった湘南鎌倉総合病院の職員第一号として、現在の病院に移ることとなった。徳州会グループは、何の決まりもなく、やりたいことができる組織で自分にあっていた。

― 今までに一番影響を受けた先生はいらっしゃいますか。

故光藤和明先生、「みっちゃん」ですね。はじめて出会ったのは、大阪で開催された冠動脈研究会で、当時はPCIに関連する会はそれしかなく、入会するのにまず面接があり、合格しないと会で発表すらできなかった。たぶん昭和60年だった思うが、その会で右冠動脈の慢性完全閉塞(CTO)に対する治療を発表した。その時座長の先生方から、どこでPCIを学んだんだ、どこの馬の骨だと散々非難された。そして自分の次に光藤先生が発表し、彼も同じように非難された。お互いの発表の後、廊下で初めて話をした。そこから交流がはじまり、いろいろと遊びにもいったよ。海外にいけば、自分がドライバー、光藤先生がナビゲーターで色々なところにいったね。あの頃はとても楽しかった。共に歩み、楽しみ、かつライバルであった。自分は常にみっちゃんには負けたくないという気持ちがあったね。

齋藤といえば橈骨動脈からカテーテルを挿入するTrans Radial Intervention(TRI)の第一人者である。TRIを始めようと思ったきっかけについて聞いてみた。

― 台湾でTRIに出会った後、なぜTRIに切り替え、またここまで治療方法を確立することができたのですか。

それは新しいものを極めるため、中途半端にやるのではなく全てを切り替えるという戦略であり、戦略上の勝ちだったと思っている。その頃はTRI用のデバイスはなく、いろいろな工夫をしなければいけなかった。Radialの魅力は、きれいごとを言えば低侵襲。安全で患者様のためではあるが、所詮、RadialはRadialだと思っている。PCIを手からやるだけで、本質的な違いはない。ただRadialから行うほうが確実に不利であるが、その条件の中で足からと同じ成功率を収めるには、技術を極めないといけないという面白さが原動力となった。実際に今はPCIよりストラクチャーに興味を持っているように、要は浮気症なんだろうね。

趣味であるプログラミングに関する莫大な量の本を読むけれど、それも最初の50,60ページを読むとだいたいわかってくるので、次の本を読み始めてしまう。1つのところにとどまるのが苦手なんだろうね。そうしていく中、一番自分にあうものがたぶん出てくる。TRIもその中の一つだったんだと思う。

Legendのこれから

「全て、何も、やり遂げていないですよ」

何かを成し遂げた感じがない、成し遂げようとする前に次のことへ興味が向いてしまうと齋藤は言う。それが前に進み続ける原動力であると同時に、齋藤の魅力でもある。

常に新しい目標を目指し、前に進む背中を後進は追いかけている。周りに影響を与え続け、自身も進化を続ける齋藤が次の世代に求めていることとは。

― 次の世代に求めていることはなんでしょうか。

外国でPCIを行っている医師の中に、その国のことを理解しないでただ治療する医師がいるように感じることがある。つまり自分の技術だけを見せびらすような治療とも言える。患者様の理解をしないで自分の考えの中で治療するのはあまり好きではない。

PCIというか医療は、文化の違い、国の違い、宗教の違い、歴史の違い、全てを超えることのできる強力なツールではないだろうか。医療は最大の武器となり、お互いのフレンドシップ、大きくいえば平和をもたらすものだと思っている。そのようにPCIや医療の先にあるものを見たり、考えたりできる人がなかなかいないのが残念である。そういう人が出てきてくれたら、必然的に周りから尊敬されるわけで、日本人からそういう医師が出てきてくれたら、とてもうれしいね。

後に、齋藤にLEGENDのバトンを渡した加藤修からの質問を投げかけてみた。

【加藤修先生からのご質問】

Q. 齋藤先生は最も古い世代の先生の中で最もactiveですが、先生のactivityを維持するためのモチベーションは何でしょうか?

浮気性(笑)。ただ目移りしているだけ。それだけですよ。

齋藤はとても渋い声をしている。話は非常にリズミカルで、興味深く、インタビューするスタッフはその心地よさに自然と魅了されていた。次々と新しいことへ挑戦するバイタリティーの源に、ロックな反骨精神を感じた。そうかと思えばインタビュー中、目をキラキラさせながらお寿司の握り方をレクチャーしてくれるチャーミングな一面も。断言しよう。齋藤と接した人間は、彼に惚れてしまうのだ。

インタビューをした齋藤のオフィスにはたくさんの本が置かれていた。博学であることはもちろんだが、文学からプログラミングまで、彼の興味は幅広い。

飄々としているように見えて、実は綿密なロジカルに従って物事を進めているのではないだろうか。常に周りに影響を与えるインフルエンサーであるにも関わらず、まだまだ自分は何もやり遂げていないと、驚くほどあっさり自分を評価する。

登山家ジョージ・マロリーが「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(Because it's there. )」と答えたように、齋藤にPCI治療への想いを問うても「目の前に患者様がいたから。」と答えるに違いない。
「難関」と言われるものを自分の努力と知識で乗り越えること、それこそが齋藤の挑戦であり、彼の歴史なのだ。

齋藤滋を知るための8つの質問

Q1. 飛行機の中など移動中に聞いている音楽はありますか。

移動中には聞いたりしない。

Q2. モチベーションをあげたい時に聞く曲はありますか。

モチベーションをあげる時に聞く曲は特にない。

Q3. 自分の性格をあらわすとしたら、どんな性格でしょうか。

浮気症だね。何ごとにも根気がないよ。

Q4. 明日で世界が滅亡するとなった時に最後の晩餐で食べたいものは何ですか。

お寿司。ネタはシメたものが好き。お寿司は自分でも握るね。

Q5. 今までで一番嬉しかったことはなんですか。

たくさんあるけど、DICOM Viewerがwindowsで操作できるように、10年の歳月をかけてプログラムをしてそれが実行できた時がうれしかった。

Q6. 今までで一番緊張したことはなんですか。

2004か2006年のPCR。ロッテルダムのThoraxcenterのカテ室からCTOの症例の治療を行った時かな。時差のある中で、パリからTGVに乗り一人でロッテルダムのThoraxcenterまで移動して、PCRのCTOの会場には何千人もの人がいて。その前で自分の治療が中継される、その時は緊張したね。

Q7. もう一度訪れたい場所(国や地域)はありますか。

ポルトガル、リスボン。みっちゃんとも行ったね。食事も合うし、きれいな街だった。

Q8. 私は・・・・である。とした時「・・・・である」は何ですか。

私は「凡人」である(笑)