Legendの原点

「自分の興味のあることしかしない」そんな子供だった

愛媛県今治市出身の加藤は山や野で走り回ることが大好きな子供だった。1学期が終わると教科書をなくしてしまうほど勉強は大嫌いで、自分が興味のあることしかしなかったという。そんな加藤がどうして医師を志し、冠動脈インターベンション治療(PCI)のフロントランナーになったのか。そこには紆余曲折、人生のターニングポイントで師となる人物との出会いがあったようだ。

― どうして医師を志したのですか?

子供の頃、家の近所に、お茶ノ水女子大学の数学の教授をされていた方が退官され戻ってきた。そのおばさんが今でいう塾のようなものを自宅で始めたので、そこに通うようになった。

彼女は天才と呼ばれる類の人で、こんな人が世の中にいるんだと思った。高校生の頃には、大学で習う内容のものは終わっていたほど数学が好きなって、将来は数学の研究者になりたいと思うほど非常に影響を受けたね。

でも田舎では数学を勉強しても将来がないと信じられていて、現役で受験するなら医学部だけと親から言われ、医学部を受験した。自分で医師を目指していたわけではなかった。入学してから他の部に入り直そうかと思っていたのだけど、丁度その頃、学生運動の激しい時代で大学が荒廃していたこともあり、実際に入学してみると「勉強し直す」という意識はほぼゼロになってしまった。だからそのまま医学部にとどまった。興味がそんなになかったので入学式にも出席せず、大学1年の秋くらいまで、大学のある場所を知らなかったくらい。

ひと言でいうと、でたらめな大学生だった。それでも自分の好きな数学は勉強していた。医学部にいる限り、卒業するためには、国家試験の勉強はせないかんと思って、その時だけ医学の勉強をしたね。

Legendのはじまり

「消化器医師から学んだカテーテル治療」

数学に興味を持っていたものの、親の勧めで医学部へ進学した加藤。学生時代も興味のあることしか取り組まなかったという。「卒業するため」、国家試験の勉強に取り組み、無事に医師となったもの、まだ明確に医師という職への目標はみつかっていなかったようだ。さほど興味のなかった医学にどうしてのめり込んでいっただろうか。

― 医師になってから循環器を専攻するまではどういう経緯だったのですか?

医師として、どの分野を専攻するか決める時、消化器系なんかは、複雑な仕組みであり自分に合わないと思った。だけど心臓は構造もはっきりしているし、当時は心臓の血管というよりも心臓のポンプ機能が工学系に近くて親しみがあるという理由で選んだ。大学卒業後、循環器といっても高血圧の医局に入った。その当初は循環器といえば高血圧であったが、高血圧には興味を持てず、カテーテルグループに配属されたのが、カテーテル治療に関わるきっかけとなった。

そこで心臓カテーテル検査もどきのようなことをはじめた。しかし、医局で喧嘩をしてその病院を辞め、大阪に戻ってきた。大阪では、南大阪病院に就職した。そこでは循環器をやっていたのは自分だけだったので、僕一人で循環器部門を任せられるようになった。当時の内科は大医局で、呼吸器、消化器、循環器等ひとまとめになっていた。

医局長は消化器系で、肝臓癌の治療であるカテーテル(TAE)を行っていた環境だったので、循環器医もカテーテル治療を習ったほうがいいと勧められて、消化器の医師にカテーテル治療を習った。

― 他科である消化器医からカテーテル治療を学んだとは驚きました。どのように習熟していったのですか?

半年もすると消化器の医師よりもカテーテル治療が上手くなってきたね。その後アンギオ装置を設置してもらい、冠動脈造影検査(CAG)を始めた。そこで虚血性心疾患の治療適応の患者を見つけた場合は、大阪府立成人病センターに紹介していた。

Legendの覚醒

「PCIをやってくれないか」その言葉からはじまった

大阪に戻った加藤は、南大阪病院でカテーテル治療の技術を磨いていく。その後関西の循環器治療の中心であり、大阪府立成人病センターに次いで西日本では2番目にCCUを設立した桜橋渡辺病院へ移動する。桜橋渡辺病院はCCU内にカテーテル室が併設されているという、当時では先端の設備の施設であった。そこで加藤の人生に一番影響を与えた人物と出逢う。その出逢いが今の加藤の基盤となったといっても過言ではないようだ。

― その当初の桜橋渡辺病院は、どのような環境だったのですか?

桜橋渡辺病院に移った頃は一次救急病院として多くの患者が、搬送されていた。特に急性心筋梗塞(AMI)の患者が多かったね。ただしその頃は、AMIは今のように一般的な病気ではなく、血栓溶解剤を投与するという治療がメインであった。またPCIは当初重症患者が適応でなかったため、緊急で運び込まれて来るAMI患者の緊急時のCAG所見をみる機会は非常に貴重だったよ。それに自分も若く、救急が大好きだったので、積極的に治療を行っていたね。

当時、CAG、PCIをできる施設はそれほどなかったが、その環境でやりたいことができた。また外科も協力的で、その当時IABP(大動脈内バルーンパンピング)はまだカットダウンで挿入していたので、緊急で夜間にAMI患者が搬送され、IABPを挿入する時には、外科医を呼ばなければいけなかったが、外科医からカットダウンを教えてもらい、外科を呼ぶことなく治療できるといった当時としては恵まれた環境ができていたが、カテーテル検査室・CCUの主任として自分が移った1年後には、上司がほとんどいなくなってしまった。そして直属の上司が南野隆三先生となった。桜橋渡辺病院では、AMIを受け入れていたこともあり、AMIの予後を追跡し、そのデータ解析をしていた。ただその予後の仕事を担当すると辞めていくという傾向があったんだよね。でも自分は南野先生から解析をするようにと言われてから、7年間続いたよ(笑)。

― 当時の解析作業はどのような感じだったのでしょうか?

解析は大変だったよ。多変量解析なんて今みたいにソフトですぐに解析できるものじゃないし、その頃のコンピューターの性能なんてものはひどいもので、一晩かけて行った解析データが翌日には消えたいたなんてことは、よくあったね。でも、もともと数学は好きだったから、解析作業を苦と思わずに作業ができたよ。

― 南野先生とはどのような先生でしたか?

南野先生は、心臓の病理の医師で、出逢った時自分は30代、南野先生は60代で30歳の年齢差があったこともあり、自由にやりたいことをさせてくれた。南野先生は、独特の哲学を持っており、医学ではなく、物の見方、捉え方、考え方、問題解決のプロセスを教えてくれた。今思い返しても桜橋渡辺病院にいた7年間、毎日怒られて続けていたね。どうやっても最後まで彼を言い負かすことはできなったよ。ただ、南野先生がいなかったら、CTO(慢性完全閉塞病変)への考え方も全く違ったものになっていたと思う。循環器医としての考え方のベースとなるものは、彼からの影響を受けており、本当に多くを学ばせてもらった。人生で最も影響を受けた人だね。

― どのタイミングでPCIをはじめたのですか。

南野先生から「PCIをやってくれないか」と言われていたけれど、自分はPCIですべてを解決できると思っていなかったし、PCIよりAMIに興味があり断り続けていた。

しかし、その頃救急体制の1つに‘患者の搬送の3分ルール’というものが加わり、桜橋渡辺病院に緊急で搬送される患者が激減した。それとともに桜橋渡辺病院の経営が傾きはじめた。それまで待遇されていたガソリン代もなにもかも削減されてきた。経営の危機を感じ、以前から南野先生に言われていたPCIをやって経営を立て直すことになった。先見の明をもった南野先生のおかげで、国内で早い段階からCCUも開設し、PCIにも注目していたことが経営の危機を救ったのだと思う。

「PCIに全く興味がなかった」

PCIの先駆者といわれる加藤から「PCIに興味がなかった」という意外な言葉が出てきた。全く興味のないPCIを突き詰めていくことになったのは何故だったのだろうか。

加藤がPCI治療へ本格的に取り組み始めたのは1990年代。まさにPCIが飛躍的に進化を遂げた時代。新しい治療法を皆が試行錯誤する中、黎明期の中心にいた加藤は自分が何をすべきかを経験値の中で見つけたようだ。

― PCIをはじめた当初はどのような状況でしたか?

PCIが治療法として社会的に認知されたのは、1990年代。その10年前からPCIをしている人は変人扱いされていた時代だからね。PCIを始めた第一世代の先生達、小林先生、内田先生、延吉先生たちは、デバイスもまだまだよくない時代の中でPCIを立ち上げた。自分がはじめた頃は、PCIの治療器具が改良された、治療法が確立された時代だったからね。時代がよかったよ。

そして内科医が自分で治療手段を持ち始めた時代でもあったね。循環器内科のPCIだけでなく、内視鏡の分野においても同じように進化していた。

桜橋渡辺病院でPCIを立ち上げようとしていた丁度同じ頃、関西ろうさい病院にいた齋藤滋先生がPCIを60例おこなったという新聞記事がでた。そこで、自分は齋藤先生のところに見学に行き、その1週間後に小倉記念病院の延吉先生のところに2日ほど見学に行き、戻ってきて1週間後の1984年10月1日に桜橋渡辺病院でPCIを始めた。齋藤滋先生と故光藤和明先生は同年にPCIをはじめ、その翌年に自分がはじめた。自分も含めこの第二世代の先生たちは、デバイスの改良とともに無謀にもPCIをどんどん行っていった。ただ、自分は三度の飯よりもカテーテル治療が大好きという人種ではなく、経営の危機から救うために仕方なくはじめたもので、客観的にみていた部分もあった。

延吉先生のところで見学した時に、「PCIを400例やりました。1000例やれば一人前でしょう」といわれ、1000例なんてできるのかと思いながらも、PCIをはじめたのが正直なところ。

― CTOに対するPCIをはじめたきっかけは何でしょうか?

その頃までにAMI2000例の予後追跡データが蓄積されていた。AMIは今よりもはるかに死亡率は高かった時代。搬送時の緊急のCAG所見や解析から、AMIの予後は、AMIの責任病変ではなく、すでにその時点でCTOがあることが、AMIの予後に関与していることを確信していた。

胸痛が起こってから、90%前後の病変に対してPCIをするのではなく、胸痛が起こる前にCTOに対して治療を行えば予後を改善することができるということが、自分たちのデータを解析して導きだした答えだった。だから、CTOに対するPCIが重要であることを確信した。そして、PCIでCTOをなんとか治療したいという思いが強くなり、それが自分の使命となった。CTOに対するPCIが10年くらいで解決できていたら、自分はそこでPCIを辞めていたね。未だに解決できないからこそ、今もまだPCIを続けている。これもめぐり合わせだと思う。

Legendのこれから

「将来のある人たちにチャンスを与えたい」
自分がやり続ける必要はない

今までの経歴はもちろんのこと、近年の活躍ぶりをみても加藤は第一線での仕事にこだわっているように思える。スポットライトを浴びているのが実によく似合う人である。加藤自身は自分のこれからについてどう考えているのだろうか。

—海外でも活躍されていますが、今までの活動を振りかえってみていかがですか。

海外でも活動したが、実際に自分の治療が海外でどれくらい理解されているかといえば、多くは理解されていない。これが現状だと思っている。国際的に認められるためには、言語の問題はもちろんあるが、論文発表や、様々な臨床試験など、日本国内からアイデアやイノベイティブな情報を発信するなど、今後やらなければいけないことがたくさんある。

そんな中、自分の年齢やモチベーションを考えた時、この先は若い世代に任せなくては、若い人の活躍の場をなくしてしまってはいけない、将来のある人にチャンスを与えたいと思った。そこで、治療の一線から退くことを決めた。

加藤の口から「第一線を退く」という言葉が出るとは想定もしていなかった。
なぜなら、彼自身の活躍は衰えを見せてはいないし、また彼自身の手技、治療技術も着実にステップアップしているように世間には捉えられていただろう。

—なぜ、現役でいられる今、第一線を退こうと思われたのですか?今後どういう目標があるのですか?

国際的には、2,3年前に引退したと言っていいと思う。実際、(故)玉井秀男先生がなくなった時点で、かなりモチベーションが下がってしまったのも事実で、その頃自分の引き際を見極めた気がしている。だから譲れるものは、譲っていきたい。自分は新しいデバイスの開発などやっていきたいと思っている。

ただし、デバイスの開発をすることを生きがいとまでは正直考えていないかな(笑)。
趣味のGOLFは、基礎体力の限界を感じていて、一からやり直さなければと思っているくらいだよ。まあ僕を一言で表すとしたら「変わったオジサン」だよね。そう。変わってるんだよ。

インタビューの最後に、加藤は自分自身を「変わったオジサン」と言って、まるで少年のように無邪気な笑顔を見せた。クシャッと笑ったその顔は、野山を駆け回っていた頃と同じ純粋さを持ち合わせているように感じた。数学という未知の学問に熱中した少年は、医師になってからもあらゆる場面でその思考力を、理論的な分析力を発揮してきた。「カリスマ的存在」という世間のイメージと、加藤の素顔は少し違っていた。目の前にいる彼は穏やかに語り、ウィットに富んだ知識人であり、はにかんだ笑顔を見せる“チャーミング”な人間だった。

「患者を救うためにはどうすればいいか。」その命題を加藤はまだ解き続けている。

Message

後世へのメッセージ

僕たち第二世代は、華やかなことを夢みていたわけでなく、結局のところ目の前の問題を解決するためにやってきただけで、目の前の仕事、つまり患者様を治療することをただしていただけだと思う。

治療法の限界を見極めて、それを乗越えるにはどうするのかを考えて、治療していただけであり、TVや雑誌などのマスコミで取り上げられたり、学会で活躍したり、ということがしたかったわけでなない。華やかさやもてはやされることへ憧れを持っている若い方もいるかもしれないが、それは医者として向かうべき道からかけ離れてしまうと思う。

受けをねらっていろいろな話をする人がいるかもしれないが、数年たてば、その人は逆のことをいっている場合だってよくある。それは間違っているよね。

CTOへの治療も、自分が受け持った患者様の問題を解決するために経験を積み上げていっただけのこと。何が患者様にとって問題か、そしてそれを解決するために疾患の本質を深く、深く理解していなければ、検査や治療は意味を持たないと思っている。 常に、目の前の問題を解決する方法を考えることが大事。そしてイノベイティブな発想を持つことが大事だと思うよ。

加藤修を知るための8つの質問

Q1. 飛行機の中など移動中に聞いている音楽はありますか。

JAZZを聞いていることが多い。あとインターネットラジオも聞くね。

Q2. モチベーションをあげたい時に聞く曲はありますか。

モチベーションをあげる時に聞く曲は特にない。
興味のあるものは音楽を聞かなくても自動的にテンションがあがるよ。

Q3. 自分の性格をあらわすとしたら、どんな性格でしょうか。

自分は興味のあるものについては、とことん突き止める。三つ子の魂100までとはよく言ったもので、そういうところは、小さい頃から何も変わっていないね。

Q4. 明日で世界が滅亡するとなった時に最後の晩餐で食べたいものは何ですか。

カレーライス(辛口)

Q5. 今までで一番嬉しかったことはなんですか。

2004年、CTOに対するCARTテクニック※1確立が確信できたとき、嬉しかったね。大昔から可能性として、レトログレードからのアクセスがあると思ってはいたが、症例の10%程度でこの方法ができたということでは治療法とはならない。レトログレードからアクセスし、アクセスできたら100%近い確率でワイヤーをクロスできるというCARTテクニックに行き着いたのが、2004年。これで世界が変わると思ったよ。

Q6. 今までで一番緊張したことはなんですか。

ないな(笑)。そんな緊張する場面がなかったよ。

Q7. もう一度訪れたい場所(国や地域)はありますか。

アイルランド。10年くらい前にゴルフをしに行っていた。スコットランドより、アイルランドが好き。

Q8. 私は・・・・である。とした時「・・・・である」は何ですか。

私は「弱者の味方でありたい」。

  • ※1 CARTテクニック:Controlled Antegrade and Retrograde subintimal Tracking テクニックアンテグレードの偽腔とレトログレードの偽腔を確実に交通させること。